大島優子氏、千葉雄大氏における絶対的“可愛さ”の考察。。

 

 

唐突だが、、

僕は大島優子氏が好きだ。

同じカテゴリー、同じ意味合いで千葉雄大氏も好きだ。

 

なぜ好きなのか、、それは、

彼女らは、自らの魅力の一部“可愛い”という部分に関して自身、なんら疑いを持っていない。

…それが実に気持ちがいいし、清々しいのだ。。

 

僕の目から見ても彼女らの可愛いさは疑いようがない、

例えるなら…地球は青い、太陽は東から昇る…と同じくらい至極当たり前の事実だ。

 

世の中に可愛い人はたくさんいる。

 

だけどその可愛いさを、自分自身何の疑いもなく、息をするかのごとく受け入れている人間は本当に稀だ。

他人からどんなに可愛いと言われようが、思われていようが、自身がその魅力に絶対的な自信を持てなければ、可愛いさもある領域を越え突き抜けることはないように思う。。

 

その稀な存在は、どんなにブリブリとぶりッ子のような仕草、自らを可愛いとほのめかすような発言をしてもちっとも鼻につかない。あざとさがない。

いや、、

むしろあざとい。。

あざといが、、そのあざとさすらちっとも鼻につくことはない。

 

千葉雄大氏に関しては、自身を『僕はあざとくてズル賢い』と豪語している。

あざといを売りに出している!…発言の黒さとは裏腹に、、印象は真っ白だ。

 

彼女らは可愛い発言・仕草など、自らを可愛く見せるにあたって照れることがない。後ろめたさも感じさせない。

だって、可愛いんだから、可愛いのは事実なんだからしょうがない。後ろめたさなどあるわけない。

いや、、

時に照れているように見せることもあるが、その程度のブレはいわば車のハンドルの遊びのようなもの…オプションではなくデフォルトである。

 

 

でも僕は、彼女らがあれほどまでに“可愛い”と感じさせることができるのは、実は対極にある“カッコいい”を極めているからこそなのだろうと思う。

分かりやすく言えば、彼女らの根本・本質は実に“男らしい”のだ。

僕自信、マイノリティーを持つ人間として“男らしい”という差別化ともとれる表現にはいささか抵抗を感じるが、分かりやすく例えればそんな感じだ…と言いたいだけだ。

 

彼女らの本質である“男性気質”が、彼女ら自身をどこか俯瞰させているのだろう。

 

…そう、彼女らにとって自身の可愛さは、どこか“他人事”なのだ。

 

自身をアピールしながらもどこか、他人を祭り上げているような意識でいるのかもしれない。

 

俯瞰しているということは、我欲にのまれることなく冷静に自身を判断できるということだ。

彼女らの“可愛いさ”のパフォーマンスには、いつもどこか余裕を感じる。。

 

彼女らを魅力的に見せている一番のポイントは絶対的な“余裕”にあるのだろう。。